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執筆者の写真Kanon Sakakura & Rian Namiki

タルトゥの学生と交流

学生交流ではTartuの広場に集合し、Tartu大学の学生たちや現地の日本人が街案内をしてくれた。そこでは、教会や大学、銅像や植物園などを周った。中でも印象的だったのは銅像である。Tartuには多くの銅像が建っており、それぞれには、その人物の歴史やアート、当時の様子であったりなど町を色印けるものとなっていた様に感じた。


その後、 私たちは個人的に学生の一人であるミアと親しくなり、カフェで3時間ほど様々な議題について話し合った。最初は、日本とエストニアの飲み物や食事の違いなどのカジュアルな会話から始まり、最終的には人種差別やLGBTQ、選挙などの政治問題へと発展し、非常に密度の濃い時間を過ごすことができた。


彼女との会話の中で最も印象に残ったのは、エストニアの性教育の問題についてである。


みなさんは、エストニアの性教育についてどのようなイメージを抱くだろうか。少なくとも、私は「北欧だから先進的っぽい」というイメージを持っていた。実際、エストニアの性教育は小学校から始まり、WHOからもモデル的な教育だとされ、高い評価を得ている。しかしながら、実際には都市部と地方で大きな差があり、先進的な性教育が進んでいるのはごく一部の都市部だけだということを知った。また、性教育の内容が教師の判断によって大きく左右されることも興味深かった。日本では、地域によってある程度の内容は変化するものの、学習指導要領に基づいているため、各学校によって進捗状況が全く異なるという状況は存在しないはずだ。もちろん、エストニアにおいても国が定めるカリキュラムは存在し、これに則って授業を進めるはずだが、あくまでも今回私が聞いた性教育に関しては、教師による裁量が大きく、教師によって子どもたちが習う内容は異なるようだ。例えば、ミア自身は、中学3年生のときに教師からセーファーセックスについて習う機会があったが、高校で知り合った友人は、教師が性教育に対して保守的だった影響で全く習ったことがないと話してくれた。また、いくら教師が教えようとしても、保護者からの反対の声で行うことが難しいケースもあるという。


こうした教師の判断や親への性教育に対する意識は、性的マイノリティの子どもたちへの影響も大きい。今回私たちがお話を伺ったミアも、男性と女性のどちらも性愛の対象とする両性愛者であり、彼女の友達にも多くの性的マイノリティがいると教えてくれたが、教師による不十分な性教育は、当事者をいじめの対象として晒し、自身のアイデンティティに対して疑問や否定的な感情を誘発することに繋がると話してくれた。


最後に、エストニアの性教育の実態を知り感じたことは、いくら制度の上で性教育が確立されていたとしても、現場で十分に行うには教師や保護者の理解が必要不可欠だということである。現在、日本では早いうちから性教育を導入することに対して「寝た子を起こすな」といった反発の声が上がっているため進んでいない状態にある。もしこれが制度化されることになれば、教師や親に対して性教育への理解促進を図る取り組みなど、アフターサポートができる体制を構築する必要があると考えた。


性的マイノリティと呼ばれる人々の社会的地位に関する問題は、比較的男女比や男女の社会参加が進んでいると思っていたエストニアでも存在しており、それらは日本にも共通していたりと相違点に気づくことができた。日本が見習えるべき点ももちろん多くあり、例えば政治面では男女比や政府の透明性の高さ等が挙げられるのではないだろうか。


また、日本で友人とは細かく話し合わない内容についても意見交換し、エストニアと日本という異なるバックグラウンドのもと話せたことは、エストニアの渡航の中でも貴重な経験となった。日本でもこういった身近な社会問題について、また人それぞれが興味のあることについて、話し合える場がもっともっと広がっていってほしいと思う。




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