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執筆者の写真Kotoe Shimizu & Sayaka Inai

"史実"を体験するということ

ロシアのウクライナ侵攻開始から1年。ロシアと国境を接し、ソ連から独立した歴史的背景を持つエストニアでは、ウクライナの影を見ない日はなかった。



エストニアに到着した日、私たちがタリンの街中で見たのは、ロシア大使館の壁面にヘイトを綴った言葉や絵が貼られている様子だった。「殺人鬼」の文字とともに血まみれの人を描いた絵もあり、私は初日からかなりの衝撃を受けたが、街を歩く市民はあえて直視しないようにしているのか、もしくは日常と化してしまって興味すら持っていないのか、誰も目を向けている様子がなかったのも印象的だった。



2日目にタルトゥへ移動してからは、ウクライナとエストニアの精神的繋がりの他、外交的・教育的な繋がりをも感じることとなった。フィールドワークを行うため2つに分かれたグループのうち、教育チームが現地の小学校で目にしたのは、エストニア人の学級で学ぶウクライナ人の生徒たちの様子だった。言語や精神的な面でハンデを抱えているであろうウクライナ人の子どもたちがクラスの最後列で授業を受けている様子に違和感を持ったと話すメンバーもいた。ICT教育を強みとし、”教育先進国”とされるエストニアにおいても、侵攻から1年経つ今も教育の現場では困惑や混乱が生じていることが分かった。


独立記念日に感じたウクライナとの繋がりは記念日に関する報告でまとめているが、コンサートからホテルへの帰路で、ホテルからほど近い広場にて2人の若者にキャンドルをともす会が開かれていた。彼らのエストニアやウクライナとの繋がりは全く分からなかったが、少なくとも自身と同年代の若者が戦争に巻き込まれ命を落としているという事実を直視することはとても心が痛んだ。さらにその翌日、街のメイン広場にはウクライナとエストニアの国旗を掲げた人々が数10人集い、静かなデモを行っていた。誰一人声を発さず橋を渡って川沿いへと向かっていた様子はどこか異様だった。



私個人としては、Japan Nightに訪れたウクライナ人留学生の2人との出会いが、エストニアでウクライナのことを考える上で外せない経験の1つである。2人とは、タルトゥ大学の学生による街歩きでも一緒に回り、様々な会話をした。しかし、2人の出身が日本のニュースで耳にしたことのある地域だと分かった時、映像として見ていた凄惨な被害が突如、自分事のように突きつけられたあの感覚は未だに忘れられない。また、戦争で砲撃を受けた教会を踏まえ、エストニアに残る歴史的建物は少ないという教授による日本語の説明を2人に英訳している時も、彼らの故郷では今なお現在進行形で同じ経験をしているのだ、歴史として残る事実をテキスト上ではなく実体験として経験しているのだと気が付いた。その時私は、2人とどう接したら良いのか分からなくなってしまった。聞きたいことは沢山あるのに、問いを言語化出来るだけの言葉を持っていなかったことが悔しくてならなかった。


エストニアは、実に安全な街だった。しかし、街並みや見えてくる色を一歩俯瞰してみれば、ソ連/ロシアによって受けた傷が建物や人々の精神の中で強く残っており、国旗を通じた民族愛や連帯を明らかにするような象徴としての青と黄色の品々は、私の記憶の中で鮮明に残っている。将来の子どもたちが歴史の教科書で、”史実”として学ぶであろう物事を肌で感じ、実際に経験している立場にある人々と交流する。エストニアについての知識を深める以上に、2024年2月という特別な時期をあの土地で過ごせたことは私の人生にとって大きな転機となったと言えるだろう。

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